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東京地方裁判所 平成5年(ワ)6777号 判決 1997年8月27日

原告

佐々木信男

外二名

右三名訴訟代理人弁護士

斉藤豊

小林七郎

鈴木研一

被告

学校法人日本大学

右代表者理事

柴田勝治

右訴訟代理人弁護士

加藤済仁

松本みどり

岡田隆志

主文

一  被告は、原告佐々木信男に対し、四一二五万三四〇〇円及びこれに対する平成五年五月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告佐々木靖子に対し、二二〇万円及びこれに対する右同日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  被告は、原告佐々木雅弘に対し、三三万円及びこれに対する右同日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

四  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

五  訴訟費用は、これを二分し、その一を原告らの負担とし、その余は被告の負担とする。

六  この判決は、原告ら勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  原告の請求

一  被告は、原告佐々木信男に対し、七七六七万七七三〇円及びこれに対する平成五年五月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告佐々木靖子に対し、五五〇万円及びこれに対する右同日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  被告は、原告佐々木雅弘に対し、一一〇万円及びこれに対する右同日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告佐々木信男(以下「原告信男」という。)が右上腹部の痛みの治療のために被告経営の病院でフェノールグリセリンによるくも膜下神経ブロックの施術を受けたところ、それが原因となって左下肢に障害が発生したとして、原告信男及びその妻子が、被告に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為による損害賠償及びこれに対する訴状送達の日の翌日から民法所定の年五分の割合による遅延損害金を請求した事案である。

一  争いのない事実等(証拠により容易に認められる事実を含む。)

(証拠により認められる事実については、認定に供した主な証拠を略記して摘示する。また、書証を摘示する場合、成立に争いがないか、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められるときは、その旨の記載を省略する。以下本判決において同様。)

1  当事者等

(一) 原告信男は、昭和四年三月一二日生まれの男子であり、原告佐々木靖子(以下「原告靖子」という。)は原告信男の妻、原告佐々木雅弘(以下「原告雅弘」という。)は原告信男の子である。(甲六五)

(二) 被告は、日本大学医学部附属板橋病院(以下「被告病院」という。)を開設している学校法人である。

2  被告病院における治療の経過

(一) 原告信男は、被告病院第三外科に入院し、昭和六二年一一月九日、胆石症の手術を受けて、同月二一日退院した。

(二) 原告信男は、その後に右腹部の痛みを訴え、平成元年三月一七日、再度被告病院第三外科に入院した。同科では各種の検査をし、同年五月二六日には開腹手術も行ったが、痛みの原因を解明することができないまま、原告信男は、同年六月一〇日、退院した。

(三) 原告信男は、平成元年一一月二一日、被告病院に再々入院し、第三外科・心療内科等で各種の検査を受けたが、第三外科では痛みの原因は結局わからないという診断であった。原告信男の主治医は引き続き第三外科グループとされたが、痛みの治療は被告病院のペインクリニックで行われた。

(四) ペインクリニックでは、原告信男に対して、平成元年一二月一四日から平成二年一月一九日までの間(乙一の一九枚目)、硬膜外持続神経ブロックによる除痛治療を行い、平成二年一月九日には、内臓神経ブロックを行った。

(五) ペインクリニックの勝山一貴世医師(以下「勝山医師」という。)は、平成二年一月二二日、原告信男に対して、フェノールグリセリンによるくも膜下神経ブロック(以下「本件ブロック」という。また、この施術を一般論としていう場合には、「くも膜下フェノールブロック」という。)を行った。

(六) 原告信男は、平成二年二月二八日、被告病院から退院を勧告され、同年三月一日、被告病院を退院した。原告信男は、退院後もしばらく被告病院に通院したが、同年五月八日以降は通院を止めた。

二  争点

本件の主な争点は、

①  被告の原告信男に対する診療行為上の過誤の有無

②  原告らの被った損害中、因果関係が認められる損害の範囲及びその金額である。

三  原告らの主張

1  争点①(被告の診療行為上の過誤の有無)について

被告担当医又は被告には、以下のような過失又は診療契約上の注意義務違反があり、それと原告らの後記損害との間には相当因果関係がある。

(一) 原告信男の右上腹部痛に対して適応(患者の当該症状に対して適切な治療法である、という趣旨でこの表現を用いることとする。)のないくも膜下フェノールブロックを実施したこと

(1) 勝山医師が平成二年一月二二日に原告信男に対して実施した本件ブロックは、脊椎くも膜下腔にブロック針を穿刺し、ブロック針を経由して神経破壊薬であるフェノールグリセリンを注入し、その作用により脊髄神経の神経根の組織を破壊することによって痛みをブロックする方法である。

フエノールの毒性は極めて強く、本件ブロックで使用された七パーセントのフェノールであっても、脊髄・神経・血管等の器官に接触すれば接触部位に腐食変性が発現する。フェノールにグリセリンを混入させてもその流動性・拡散性を完全には防止できず、狙った箇所以外の部位に薬液が付着する危険性がある。

また、くも膜下腔という狭小な部位においてブロック針の針先が正常な位置にあるかどうかを確認する術がなく、必ずしも術者の意図したとおりに針先が位置しているとは限らないため、針先が脊髄を損傷したり、脊髄自体や目的外の神経根に薬液が付着する危険性がある。

(2) したがって、このようなフェノールの性質及び手技上の難しさに鑑みると、くも膜下フエノールブロックは脊髄障害等の合併症を発生させる可能性の高い危険な治療法であり、その適応は、癌性疼痛又はこれに準ずる疼痛に限定すべきである。即ち、くも膜下フェノールブロックは、これにより脊髄に障害を起こし、下半身麻痺等の後遺障害を残す危険性があることを考慮しても、なおそれにより疼痛を除去することで得られる利益(肉体的・精神的平穏)の方が大事だという場合に初めて許されるというべきである。

(3) 原告信男の右上腹部痛は、その原因は不明であるが、少なくとも癌性疼痛又はこれに準ずる疼痛でないことは明白であった。また、本件ブロックの当時原告信男は六〇歳であり、同人の残りの人生を考慮すれば、下半身麻痺等の障害が残ることによる不利益は、右上腹部の疼痛を除去することにより得られる利益よりもはるかに大きかった。

したがって、本件ブロックは原告信男の右上腹部痛に適応がなかったことは明らかであり、本件ブロックを実施したこと自体に被告担当医の過失が認められる。

(4) 原告信男に生じた後記障害は本件ブロックにより発生したものであるから、被告担当医の右過失行為と原告らの損害との間には相当因果関係がある。

(二) 説明義務違反

(1) くも膜下フェノールブロックは、前述のとおり、下半身麻痺等の合併症を生ずる危険性の高い医療行為であるから、被告担当医は、原告信男に対して、その実施前に施術の内容及び合併症発生の危険性を説明すべき義務がある。

(2) ところが、勝山医師は、原告信男に対し、本件ブロックの実施前に本件ブロックの内容及び本件ブロックによる合併症発生の危険性について何ら説明しなかった。

(3) 原告信男に対して合併症の危険性について事前の説明がなされていれば、原告信男は本件ブロックの実施を承諾せず、本件ブロックは実施されなかったから、原告信男の後記障害は発生しなかったということができる。したがって、被告の説明義務違反と原告らの損害との間には相当因果関係がある。

(三) 手技上の過失

勝山医師は、本件ブロックの実施にあたり、次のうちいずれかの手技上の過失があり、右過失行為により原告信男の後記障害が発生したものである。

(1) 原告信男のくも膜下腔に針を刺入した際、誤って針先を脊髄表面又は脊髄神経に接触させて脊髄又は神経根を直接損傷した。

(2) 針先を誤った位置(疼痛部位とは反対側の正中線左側)に刺入し、これを看過したまま薬液の注入を行い、付着させてはならない左側脊髄及び左側神経根に薬液を付着させて損傷した。

(3) 針先によって脊髄又は神経根を直接損傷した上、さらに、その後薬液を注入し、針先による損傷部位に薬液を付着させ、損傷の程度を拡大した。

2  争点②(因果関係のある損害及びその金額)について

(一) 原告信男は、本件ブロックの施術を受ける直前まで左下肢には何の異常もなく、独歩も十分可能であったところ、本件ブロックにより突如として左下肢に異常が生じ、これがだんだんと悪化して耐え難い異常感覚・歩行障害へと進行したものである。

即ち、①原告信男の左下肢の指・足の裏・大腿部・尻部・腰・肛門にかけて、強弱の差こそあるが間断のない感電でもしたようなしびれ、②左下肢全体にわたって皮膚感覚の異常、③排泄の不円滑があり、これらの諸症状のため、原告信男は、自力歩行や自力での入浴が不可能な状態になっている。

(二) こうした原告信男の障害による原告らの損害は、以下のとおりである。

(1) 治療費 五二九万二〇四四円

(原告信男が右障害を治療するために被告病院以外の医療機関に入通院した際の治療費等)

(2) 付添看護費 三七三九万六五五〇円

(原告信男が右障害のために付添を必要とすることによる入院中の付添費三三八万八〇〇〇円、自宅での付添費六八三万九〇〇〇円、通院に際しての付添費五七万二〇〇〇円、将来の付添費二六五九万七五五〇円の合計)

(3) 入院雑費 六二万九二〇〇円

(原告信男が右障害を治療するために被告病院以外の医療機関に入院した際のもの)

(4) 通院交通費 六三万二一四〇円

(原告信男が右障害を治療するために被告病院以外の医療機関に通院した際のもの)

(5) 器具購入費 三二万七七九六円

(原告信男が右障害のために必要とした器具備品の費用)

(6) 慰謝料 三二〇〇万円

(原告信男分二六〇〇万円、原告靖子分五〇〇万円、原告雅弘分一〇〇万円の合計)

(7) 弁護士費用 八〇〇万円

(原告信男分七四〇万円、原告靖子分五〇万円、原告雅弘分一〇万円の合計)

四  被告の主張

1  争点①(被告の診療行為上の過誤の有無)について

(一) くも膜下フェノールブロックは、悪性腫瘍による疼痛ばかりではなく、動脈瘤による疼痛、四肢の痙性麻痺、術後神経痛、神経根炎、ヘルペス後の神経痛、頑固なその他の神経痛などの除痛のためにも行われている。また、本件ブロックのような第九・一〇胸椎間からのブロックでは合併症の危険性は少ない。原告信男の病状や本件ブロックが行われるまでの診療内容・経過からすれば、勝山医師が原告信男に本件ブロックを行ったこと自体は何ら責められるべきものではなく、原告信男の症状に対してくも膜下フェノールブロックの適応があったということができる。

(二) 勝山医師は、本件ブロックに先立ち、平成二年一月一九日に、ネオペルカミンSによるくも膜下ブロックを行っており、その際にくも膜下ブロックがどのようなものであるかを説明した。ただし、くも膜下フエノールブロックの危険性については特に説明していない。

(三) 勝山医師の手技上の過失については否認する。

2  争点②(因果関係のある損害及びその金額)について

争う。原告信男の入・通院の主たる目的はいずれも腹痛に関するもので、左下肢に関するものではない。また、同原告は、もともと腹痛で座位・歩行も困難となり食事も十分とれない状態であったし、現在ペースメーカーを使用していて一級の障害認定を受けているから、仮に本件ブロックにより何らかの後遺症が認められるとしても、その慰謝料や付添費用の算定にあたっては、これらの事情が考慮されるべきである。

第三  争点に対する判断

一  事実経過

1  本件ブロックが行われるまでの経緯

(一) 第一回入院

原告信男は、昭和六二年夏ころ、吐き気と食欲不振を訴えて被告病院で診察を受け、胆石症と診断された。原告信男は、その後、被告病院第三外科に入院し、昭和六二年一一月九日、同科で胆のうを摘出する手術を受けた。原告信男は、手術後間もなくから右の背中と右肩甲骨周辺の痛みを訴えるようになったが、痛みの原因は判明しないまま、同月二一日、退院した。(争いのない事実、甲一五の二項)

(二) 第二回入院

(1) 原告信男は、退院後も右上腹部、右背部及び右肩甲骨周辺の痛みなどを訴えて被告病院第三外科に外来通院していた。昭和六三年五月ころからは、痛みはさらに強くなり、上体を曲げ伸ばししたり腹部を圧迫したりすると強い痛みを覚えるようになり、日常生活にも支障を来すようになって、定年退職後嘱託社員として勤務していた勤務先を同月一杯で退職した。(争いのない事実、甲一五の二項)

(2) 原告信男は、その後も右上腹部痛等を訴え続け、平成元年三月一七日、再度被告病院第三外科に入院した。同科では各種の検査をし、同年五月二六日には開腹手術も行ったが、痛みの原因を解明することができないまま、原告信男は、同年六月一〇日、退院した。(争いのない事実)

(3) 右第二回入院の間、原告信男は、平成元年四月二七日に被告病院心療内科に受診し、同年三月二八日から同年四月一〇日にかけて被告病院ペインクリニックにも受診した。心療内科では「性格検査の結果著名な神経症傾向等は認められないが、心因の関与も否定できない。」旨の所見であった。ペインクリニックでは、自己興奮性の神経悪循環ができあがっているので痛みの悪循環のブロックに主眼をおいて加療するという方針の下、局所ブロックを実施して一時的にやや除痛効果が得られた。硬膜外ブロックも実施したが除痛効果は得られなかったので、その後は局所ブロックを三回行ったが、その効果は、二、三時間は痛みが和らぐという程度であった。その際使用された薬剤はキシロカイン又はカルボカインで、いずれも局所麻酔薬であった。(第一五回弁論調書と一体となる証人勝山調書(以下「証人勝山①調書」という。)二から五頁、乙一の三から一〇枚目、乙四の三から七枚目)

(三) 第三回入院

(1) 原告信男は、その後も腹痛等を訴えて被告病院第三外科に外来受診を続けた。平成元年秋ころになると原告信男の痛みがさらに激しくなり、痛みが強い場合には少しの動作でも激しく痛むようになったほか、腹部の嘔気が続くようになった。(原告信男本人調書一七項、甲一五の四項、乙二の二枚目)

なお、原告信男は、同年七月二六日及び同年九月一九日に、防衛医科大学校病院の外来にも腹部の痛みを訴えて受診している。(乙七の一枚目、乙八の一枚目)

(2) 原告信男は、同年一一月二一日、被告病院に再々入院し、第三外科で各種の検査を受けたが、異常な所見は認められず、第三外科では痛みの原因は結局わからないという診断であった。原告信男の主治医は引き続き第三外科グループとされたが、痛みの治療は被告病院のペインクリニックで行われた。(争いのない事実)

(3) 右第三回入院の間、原告信男は被告病院の心療内科及び神経内科にも受診した。神経内科には平成元年一二月一一日に受診し、原告信男は、腹部痛について「軽い痛みは二四時間続いており、歩行や座位を続けていると強い痛みがある。」旨を訴えたが、同科の所見は「神経学的には正常」というものであった。心療内科には平成二年一月一七日に受診し、同科は「心身症的な捉え方をした方がよいのではないか。」という所見であった。(乙三の二から九枚目、乙四の八・九枚目)

(4) ペインクリニックでは、原告信男に対して、平成元年一二月一四日から平成二年一月一九日までの間、局所麻酔薬であるキシロカイン又はマーカインを使用した硬膜外持続神経ブロックによる除痛治療が行われ、平成二年一月九日には、内科神経ブロックが行われたが、いずれも除痛効果はあまり得られず、「精神的因子が主因かもしれない。」という所見であった。(争いのない事実、証人勝山①調書六・七頁、乙一の一一から一九枚目)

2  本件ブロックの実施

(一) ペインクリニックでは、原告信男に対してくも膜下フエノールブロックを実施することとして、そのテストのため、平成二年一月一九日、、勝山医師によって、原告信男に対して、局所麻酔薬であるネオペルカミンSを使用し、第九・一〇胸椎間でブロック針を穿刺する方法でくも膜下ブロック(以下「テストブロック」という。)が行われた。

テストブロックの実施前に、勝山医師は、原告信男に対して、くも膜下ブロックについて、「今まで行った硬膜外ブロックと同じような部位から細い針で穿刺して、くも膜下というところに局所麻酔薬を少量注入します。そして痛みの原因になっている神経をしびれさせて痛みをとります。このしびれ感は数時間後に消え、必ず元に戻るから心配は要りません。しびれている間は痛みはありません。しかし、しびれ感が消失すれば元来の痛みが頭を持ち上げてきて、また痛くなります。」と説明した。

テストブロックによる除痛効果は認められたが、薬剤の性質上、その効果は一時的なものであった。除痛効果が得られた後、勝山医師は、原告信男に対して、「今回のしびれ感が苦にならないようなら、今回使った薬より効果の長い薬を使って、後日同じ方法でブロックを行ってみましょう。」と告げた。(証人勝山①調書九から一三頁、乙二の二六から二八頁、乙一二の一・二頁、弁論の全趣旨)

(二) テストブロックによる除痛効果が認められたことから、勝山医師は、平成二年一月二二日、原告信男に対して、本件ブロックを実施することとした。

その際、勝山医師は、心身症的な捉え方をした方がよいのではないかという心療内科の平成二年一月一七日段階での所見を考慮の対象とはしていなかった。また、勝山医師は、原告信男に対して、本件ブロックによる合併症の可能性については説明をしなかった。ちなみに、被告病院では、本件ブロックのように胸椎レベルでくも膜下フェノールブロックを実施する場合は、腰椎レベルで実施する場合よりも合併症の危険が少ないことから、特段の説明をしないのが通例であった。

ブロック針による穿刺部位はテストブロックの場合と同じく第九・一〇胸椎間であり、勝山医師は、七パーセントのフェノールグリセリンを0.1ミリリットルずつ、三回に分けて合計0.3ミリリットル注入した。

注入後、勝山医師は、ブロック針をそのままにして一五分間様子をみ、ブロック針を抜去してから約一時間は原告信男を注入時の体位(背面を約四五傾けた姿勢)のまま安静にさせたうえ、午後零時一〇分過ぎ、原告信男を病室に戻した。(第一六回弁論調書と一体となる証人勝山調書(以下「証人勝山②調書」という。)七から一六頁、乙二の二九枚目、乙一二の四から六頁)

3  本件ブロック後

(一) 原告信男は、本件ブロックが行われた当日である平成二年一月二二日の午後二時から午後六時の間に、左側の腹から下肢にかけてしびれがある旨を看護婦に対して訴えた。また、原告信男は、翌二三日には、勝山医師に対して、左側の下肢・下腹部のしびれに帰室後初めて気がついた旨を訴えた。(乙二の三〇枚目、乙一の二二枚目)

(二) その後も、原告信男は、程度の差こそあるものの、一貫して左下肢のしびれや知覚鈍麻を訴え、しばしば左下肢の痛みと歩行困難を訴えた。(乙一の二二から二五枚目、乙二の六から二五・三〇から四七枚目)

原告信男は、右の症状について、平成二年二月一三日及び同月二七日に被告病院の神経内科の診察を受けたが、その所見は、「軽微な神経学的な異常は存在するかもしれないが、心理的または心因的な因子が加わって症状を大きくしているのではないか。」というものであった。(乙三の一〇から一八枚目)

(三) 原告信男は、平成二年二月二八日、被告病院から退院を勧告され、同年三月一日、被告病院を退院した。原告信男は、退院後もしばらくは被告病院に通院したが、同年五月八日以降は通院を止めた。(争いのない事実)

二  原告信男の障害及び本件ブロックとの因果関係

1  原告信男の障害

(一) 被告病院を退院してから約三か月経過後の平成二年六月一八日時点で、原告信男は、左下肢について、「わずかな距離の歩行でバランスがとれなくなり松葉杖が必要である。聞断のない頑固なしびれがある。足の裏に刺通性の異常感覚がある。肛門周辺の感覚がない。」旨の自覚症状を、そのころ通院した防衛医科大学校病院の医師に対して訴えていた。(乙八の六枚目)

同病院麻酔科の佐藤医師は、平成二年一一月一九日ころ原告信男を診断して、原告信男に左側第六胸髄(「胸椎」との記載は「胸髄」の誤記であることについて、第一七回口頭弁論調書と一体となる鑑定人調書(以下「鑑定人①調書」という。)一五頁)以下の運動及び知覚神経の麻痺があることを認め(甲九)、また、この六か月以上症状の変化はなく、これから神経の回復はほとんど考えられないとの診断をした(乙一六の一八枚目)。

(二) 三井記念病院神経内科の萬年医師(なお、同医師は後に本件において鑑定人となっているので、鑑定人の立場としての同医師を以下「鑑定人」という。)は、平成六年九月二九日に原告信男を診断し、原告信男の左下肢に運動麻痺を認め、同原告の股・膝・足首は関節運動はできるが軽い抵抗をはねのけることができない状態にあり、また知覚障害については温通覚・触覚全てが(左側の)臍以下で低下しており、左下肢の振動覚にも異常を認めた。また、萬年医師は、同原告が、日常の動作としては辛うじて立位を保つことはできるが、歩行は著しく制限され、車椅子を使用する状態にあると認めた。(甲一一、甲一七の一の一三枚目)。

右状態は、萬年医師が平成七年六月一五日に原告信男を再度診断したときにもほとんど変わりがなかった。(鑑定人①調書七頁)

(三) なお、右(一)と(二)の診断の間にも、原告信男は、次のような入通院を行っている。これらのいずれの場合も、各医療機関においては、同原告が訴える左下肢の症状について、その原因についてはともかく、その訴え自体が虚偽であるという受けとめ方はされていない。

(1) 平成二年七月一七日から同三年七月二日にかけて東京厚生年金病院に通院(原告信男本人が来院せず、妻である原告靖子が来院して原告信男のための薬の処方を受けた場合も含む。)したが、原告信男はその初診時に本件ブロック後の左下肢のしびれを訴え、同病院ペインクリニックの柳田医師は、原告信男の左下肢の運動麻痺が本件ブロックによるものと診断した。(乙六の三から七枚目)

(2) 平成二年八月一三日から同年一一月一二日にかけて、左下肢の知覚異常等を訴えて都立大塚病院に通院したが、同病院内科の上原医師は、原告信男に左下肢の知覚異常のための歩行障害の存在を認めた。(乙一四の一七・二五から二七枚目)

(3) 平成三年一月一六日から同年四月一八日にかけて防衛医科大学校病院に入院したが、入院時の第二内科医師の所見として、原告信男の左第六胸髄以下に温通覚・位置覚・振動覚の低下が認められた。(乙五の一・二枚目)

(4) 平成五年七月一六日から同五年八月九日にかけて防衛医科大学校病院に入院したが、その際も原告信男は左第六胸髄以下の麻痺を訴え、同病院麻酔科の樋口医師は、不全麻痺の存在を認めた。(乙九の二から四枚目)

(5) 平成六年九月二〇日から同年一〇月四日にかけて、左下肢のしびれ等と歩行障害を訴えて慶應義塾大学病院に通院したが、同病院神経内科の厚東助教授は、原告信男に左下肢の運動・知覚障害を認め、歩行については要介助であると診断した。(乙一六の三から八枚目)

(四) 以上の事実及びその他の証拠(甲一五の一九から二二頁、鑑定人①調書四五・四六頁、平成七年五月二九日付け証拠調調書と一体となる原告信男本人調書(以下原告信男調書」という。)一〇から一二項)を総合すると、原告信男の障害は、左下肢の運動障害による歩行困難(自力歩行不可能)、左側の臍部以下の知覚障害(しびれ、温感の低下、排便、排尿の不円滑)を主な内容とするものであり右障害は遅くとも被告病院を退院した平成二年三月一日ころにはほぼ固定していたものと認められる。

そして、右障害の結果、原告信男は、移動には車椅子を使用し、入浴・排泄については介護を要する状態であり、左下肢のしびれから座位を長時間保つことができない。なお、左下肢の知覚異常には強弱があるが、二、三日に一度くらいの割合で極めて強い痛みとしびれが起きることがある。(第二三回口頭弁論調書と一体となる原告靖子本人調書(以下「原告靖子①調書」という。)一九から二三・二九から三一頁、原告信男調書一〇から一二項)

ところで前記一3(二)の事実をも総合すると、右障害が原告信男の心因的な要素により増幅されている面があるかもしれないということができるが、だからといって、およそ客観的には障害が存在しないのに同原告がその気持ちの中で障害があると一人で思い込んでいるだけであると断定することは困難である。

2  本件ブロックとの因果関係

(一) 原告信男の前記のような障害の発生原因について、ペインクリニックの専門医である柳田医師は、本件ブロックを施行する際に行ったくも膜下腔穿刺中、胸髄下位レベルを狙って穿刺した針先が目標からずれて腰脊髄に接触し、腰髄神経を損傷したことが原因であるという見解を(甲一四の四の六頁)、鑑定人は、脊髄表面の血管にフェノールグリセリンが付着し、静脈に障害を起こして脊髄の障害を引き起こしたほか、末梢神経も障害されたことが原因であるという見解を(鑑定人①調書二五・二九から四二頁)、それぞれ示している。

なお、右いずれの見解も、原告信男にみられる症状及びその経過からその原因を推測したものであって、実際にどのようにして原告信男の障害が発生したかという障害の発生過程ないし機序の詳細を明らかにするものではなく、その点は、本件全証拠によってもこれを明らかにすることができない。

(二) 右(一)後段のような問題もあるが、だからといって本件ブロックと原告信男の障害との間に因果関係が認められないというものではなく、原告信男が本件ブロックの終了後遅くとも数時間以内に左下肢及び左下腹部のしびれを訴え始め、右訴えは現在に至るまで基本的に継続して存在すること、本件ブロックの実施前には原告信男は右のような異常を訴えていなかったこと(勝山②調書五二頁)、及び原告信男に左下肢障害を生ずるような他の疾患が考えられないこと(鑑定人①調書四一・四二頁)からすれば、原告信男の障害は本件ブロックにより発生したものであるということができる。

右(一)前段のような程度に障害の発生過程を明らかにすることすらもできないとしても、本件ブロックと原告信男の障害との間に法的な因果関係の存在を認めるには十分であるということができ、かつそう判断するのが事案の性質からみて相当であると考える。

(三) これに対して、被告は、①原告信男が本件ブロック後被告病院入院中に訴える症状が不自然に変化していること、②本件ブロックにより脊髄及び末梢神経が同時に、しかも左側が受傷することは考えられないこと、③脊髄に永続的な障害を被ったのであれば深部腱反射・バビンスキー反射が診察時期によって陽性であったり陰性であったりと変化するのはおかしいこと、を指摘して、右因果関係の存在を争う。

しかし、①の指摘については、確かに原告信男は被告病院入院中に左下肢以外の部位にも異常を訴えたことがあるものの、問題となる左下肢の麻痺については、本件ブロック後ほぼ一貫してこれを訴え続けていること(乙一、乙二)からすれば、これを不自然な訴えであるということはできない。また、②の指摘については、順天堂大学医学部教授宮崎東洋医師作成の意見書(乙一九)をその根拠とするものであるが、右意見書は本件ブロックによって原告信男のような症状が発生することは理論的にあり得ないと断定した内容ではなく、他に原告信男の障害の発生又は拡大の原因と合理的に推察される要因を指摘するに至っていないから、右(二)の認定を左右するに足りるものではない。③の指摘については、神経内科の専門医である鑑定人が「神経組織の変性の時間的な経過に伴う所見の変化であると解釈できる。」としていること(第一八回口頭弁論調書と一体となる鑑定人調書(以下「鑑定人②調書」という。)一八頁)に照らすと、さほど不自然なこととはいえない。

三  くも膜下フェノールブロックについて

1  ブロックの目的

くも膜下フェノールブロックは、患者の痛みに対する対症療法として、くも膜下腔に神経破壊薬であるフェノールを少量注入して、脊髄の各分節から離れて出る脊髄神経のうち、主として知覚繊維を含む後根(これに対して、前根は主として運動神経繊維を含む。)を、選択的かつ半永久的に遮断することを目的に行われる治療方法である。(甲一の二一九頁)

2  手技の概要

(一) まず、神経学的な検査によって、ブロックすべき脊椎分節を決定し、その分節に到達するためにどの脊椎骨間から針を刺入するかを決定する。

(二) くも膜下フエノールブロックに使用されるフェノールグリセリンの比重は1.25程度で、くも膜下腔内に入っている脳脊髄液の比重(1.006)より重いので、これがくも膜下腔に注入されると、体位の低い方に移動して沈んでいく。したがって、患者の体位を四五度の半仰臥位にすると、下になっている側の脊髄神経の後根がくも膜下腔中で最も低い位置にくるので、後根のみがフェノールグリセリンの層に浸されることとなる。

患者にはこのような体位をとらせて、決定した刺入部位からブロック針を刺入し、徐々に針先を進めて、針先がくも膜下腔に入ったことを確認するために、脳脊髄液の流出を確認する。

(三) この段階でブロック針の位置を固定し、患者の反応・知覚の変化・副作用をチェックしながら、フェノールグリセリンを非常にゆっくりした速度で注入する。

(四) フェノールグリセリンの注入後は、少なくとも四五分間は、患者にそのままの体位を維持させる。(以下(一)から(四)につき、甲一の二二二から二二七頁、甲四の二一九から二三〇頁)

3  フェノールの薬理作用

フェノールは、それ自体が強い腐食毒性を有しており、本件ブロックにおいて用いられた濃度七パーセントのフエノール液が脊髄・神経・血管等の身体組織に接触すれば、接触部位の組織は腐食し、破壊される。フエノールグリセリンは、フェノールをグリセリンに溶解させた溶液であるが、その薬理作用はフェノールと同一である。(甲五五の四枚目裏から五枚目裏)

くも膜下フェノールブロックは、フェノールのこのような薬理作用を脊髄神経の後根にのみ選択的に及ぼすことによってその神経組織を破壊することを狙いとした手法であるということができる。

4  合併症の危険性

(一) 一般的な指摘

くも膜下フェノールブロックによる重篤な合併症としては、①ブロック針やフェノールグリセリンによって脊髄を損傷した場合の一次的な神経障害、②脊髄動脈損傷による二次的な神経障害(右①、②のいずれも最も重篤な合併症であり、障害部位以下の両側麻痺を生じる場合がある。)、③膀胱・直腸障害(排尿・排便が困難となる。腰椎付近で神経破壊薬の注入が行われた場合に多く、胸椎以上でブロックが行われる場合、脊髄自体が障害されない限り、あまり見られないとされる。)、④運動麻痺、(脊髄神経の前根が神経破壊薬で浸された場合、又は脊髄自体が侵された場合に起こる。胸部の場合、肋間神経の麻痺が分節的に生じても他の神経による代償があるため、自覚的にも他覚的にも明らかな運動障害の症状として表面には現れてこないとされる。)などが挙げられている。(甲一の二三〇から二三一頁、甲四の二三九から二四一頁)

(二) 臨床研究例

(1) 昭和五八年にペインクリニックの専門誌に掲載された論文(甲六)によれば、当該研究グループが過去一二年間に行ったくも膜下フエノールブロック症例のうち、十分な鎮痛効果が見られ、さらにその経過が良く判明している一八三例(そのうち一七五例が癌性疼痛)について、延べ四一五回のブロックを行った結果、合併症と思われる何らかの異常を認めた回数は四三回(10.4パーセント)、そのうちいわゆる神経系障害(運動・知覚障害、知覚障害、膀胱直腸障害)は三五例(8.4パーセント)発生した。そのうち三二例は一過性の障害であったが、三例(全症例に対して1.6パーセント、全施行回数に対して0.7パーセント)については永久的な障害を残した。

(2) 昭和六二年にペインクリニックの専門誌に掲載された論文(甲五)によれば、当該研究グループは昭和六〇年六月までに癌性疾痛症例一二八例に対してくも膜下フェノールブロックを二五二回施行し、そのうち二七例(21.1パーセント)に臨床的に明らかに認めうる程度の永続的な運動麻痺(上肢又は下肢の運動麻痺、膀胱直腸麻痺、脊髄麻痺、嚥下困難)の発生が認められた。

(3) 昭和六二年にペインクリニックの専門誌に掲載された論文(甲七)によれば、当該研究グループは過去四年半に癌患者二三症例に対し二四回のくも膜下フエノールブロックを実施し、うち三件(11.1パーセント)に合併症を生じたが、一件は一過性のものであった。

5  適応

(一) 以上の1ないし4を踏まえて、くも膜下フェノールブロックの適応について検討する。

(1) くも膜下フェノールブロックは、悪性腫瘍による頑固な疼痛に対して適応があるという点では、各種の文献における見解は一致している。

(甲一の二三一頁、甲三の一四三八頁、甲四の二三九頁、甲六三の三八頁)

(2) しかし、それ以外の原因による痛みについては、「もっぱら悪性疾患に伴う除痛法としてのみ行うべきであり、決して良性疾患に対して行ってはならない。」旨を述べて適応を否定する文献(甲二の五三頁)があり、また、悪性腫瘍による疼痛以外についても適応があると述べる文献(甲一の二三一・二三二頁)も、①悪性腫瘍による頑固な疼痛、②動脈瘤による激痛及び③四肢の痙性麻痺を適応として挙げる以外には、「④その他術後神経痛、頑固なその他の神経痛、神経根炎、ヘルペス後の頑固な神経痛、慢性膵臓炎、狭心症などに、くも膜下腔ブロックが用いられた報告がある。しかしこれらの疾患には、むしろ交感神経節アルコールブロックが有効である。」と述べ、右④のような症例に対してくも膜下フェノールブロックを実施することに対してはむしろ消極的な意見であるといってよい。右文献は、同時に、くも膜下フェノールブロックについて、「成功した場合には、劇的な効果が得えられるのに反し、失敗した場合は、単に疼痛の消失や症状の改善が得られないばかりでなく、注入部での脊髄の横断症状とか、運動神経の永久的な麻痺だとか、非常に重篤な合併症を起こすことがあるので、決してみだりに試みてはならない。」旨述べており、くも膜下フェノールブロックの適応を限定的に捉えようとする姿勢をみせているということができる(甲一の二一九頁)。

(3) また、前出の柳田医師も、原告ら代理人に対する書簡の中で、「くも膜下フェノールブロックは、余命が一年以内の悪性疾患による疼痛に対して考慮される治療法であって、良性疾患に対しては適応とはならない。」旨の見解を繰り返し述べている。(甲一四の三、甲一四の四の三頁、甲一四の六の一頁)

(4) 鑑定人も、くも膜下フェノールブロックは、癌性疼痛に対して麻痺を覚悟で使うのであれば、適応があるという趣旨の見解を述べている。(鑑定人①調書四九・五〇頁、鑑定人②調書三三・三四頁)

(5) 前記4(二)の臨床研究例でも、くも膜下フェノールブロックが施行された症例のほとんどが癌性疼痛の患者であったということができる。

(二)  以上によれば、くも膜下フェノールブロックは、臨床的には、癌性疼痛の患者にほぼ限定して実施されている治療法であったということができる。

このように適応が限定される理由は、失敗した場合に脊髄障害や運動神経の麻痺などの重篤な合併症を起こすことがあり、かつ臨床的にもそれが決して稀なことではないからである。したがって、ブロックの実施に伴いそのような合併症が発生することをある程度予測してかからねばならず、そのような危険性を考慮してもなお残された余命を痛みから解放された状態で送ることが患者にとって有益であると判断される場合にのみくも膜下フェノールブロックの実施を考慮すべきである。(鑑定人①調書五頁、甲一四の四の三頁)

このような観点からすると、「意見書」(乙一九)が指摘するように、くも膜下フェノールブロックは、当然に癌性疼痛に限定して行われるべきであるとか、逆に癌性疼痛であれば当然に適応があるということはできないが、少なくとも前記のような患者の「クオリティー・オブ・ライフ(生活の質)」に対する慎重な考慮を加えたうえでその適応の有無を判断すべきものであるということができる。

なお、癌性疼痛以外にもくも膜下フエノールブロックが行われた例として被告が提出した論文(乙一七)の症例は、いずれもブロックの実施以前に外傷性の脊髄完全損傷のあった患者に対して、損傷部位より下方の部位においてブロックを実施したものであるから、適切な反証とはいえない。

四  原告信男に対するくも膜下フェノールブロックの適応の有無について

1  前記一において認定した事実によれば、原告信男は、胆石症の手術後本件ブロックの実施まで、二年以上にわたって頑固な右上腹部痛を訴え、被告病院などに入通院を繰り返してきた。また、痛みが強い場合には日常生活にも支障が出るという状態であり、ペインクリニックで実施した局所ブロック・硬膜外ブロック・内臓神経ブロックでは著効はみられなかった。これに対し、テストブロックとして局所麻酔薬を用いて行ったくも膜下ブロックでは、一時的に除痛効果が得られた。

右のような側面だけをみれば、ペインクリニックにおいてより強力な除痛治療としてのくも膜下フエノールブロックの実施を考慮したのも、うなずけないことではない。

2 しかしながら、本件ブロック実施当時、原告信男の右上腹部痛は、繰り返し行われた各種の検査によっても、その原因が不明であった。そして、昭和四年生れで当時六〇歳であった原告信男は、何ら器質的病変が認められない以上、六〇歳男子の平均余命(約二〇年)程度の余命があったと考えられる。そうすると、当時の原告信男に対して、合併症の危険を考慮してもなお本件ブロックを実施すべきであるといえるほどの実施の必要性があったとは考え難く、むしろ本件ブロックは原告信男の症状に対しては適応がなかったというべきである。

3  この点については、「ペインクリニックとしては痛みの治療をその目的としており、他の神経ブロックを試みても除痛効果が得られなかったのであるから、もはや本件ブロック以外の治療法がなかった。」という反論があるかもしれない。

しかし、本件ブロックを実施した結果重篤な合併症が発症しては、本件ブロックを実施する意味がない。のみならず、そもそも本件ブロック実施当時、原告信男の訴える痛みについて、同じ被告病院の心療内科は「心身症的な捉え方をした方がよいのではないか。」という所見を有し、ペインクリニックでも「精神的因子が主因かもしれない。」と判断していたことからすれば、原告信男に対する治療の主眼を精神的なケアに移すといった選択も当時十分に考慮可能であったというべきである(ちなみに、心因性の疼痛に対してくも膜下フェノールブロックの適応があると述べる文献は、本件証拠中には存在しない。)。ところが、勝山医師がそのような選択肢も含めて総合的に検討した結果本件ブロックを最善の治療法として選択した様子はうかがえない。

仮に、本件ブロックを実施する客観的な必要性がそれなりに存在し、かつ原告信男が本件ブロックによる合併症の危険性を十分承知した上で、なおかつ従来より強力な除痛法として本件ブロックの実施を積極的に望んだということであれば、勝山医師が本件ブロックを実施したこと自体はあながち責められるべきではないと考える余地がある。しかし、前記認定の事実経過のとおり、第一に、勝山医師が原告信男に対して事前に本件ブロックの危険性については何ら説明をしておらず、むしろ本件ブロックには危険性が伴わないかのように受け取れる説明しかしていないため、原告信男は、本件ブロックによる合併症の危険性を十分知っていなかったのであり、第二に、同原告がその実施を積極的に望んだといえるだけの事実も認められない。しかも、第三に、実施の必要性についての事前の検討が十分ではなかったのである。

4  また、勝山医師は、「胸椎レベルでくも膜下フエノールブロックを実施する場合は腰椎レベルで実施する場合よりも合併症の危険が少ないから、本件ブロックの実施に際しては、それほど適応を限定して考える必要はない。」という考え方に立って本件ブロックを実施したかもしれない(勝山①調書二五・二六頁)。

確かに、前記三4(一)で指摘したとおり、膀胱・直腸障害や下肢の運動麻痺については、腰椎レベルでブロックを行った場合に発生しやすく、胸椎レベルでブロックを行っ場合には発生しにくいということができる。

しかし、脊椎骨とそれに対応する脊髄の分節との間にはずれがあって、下部胸髄ではそれが約二、三分節のずれとなることが指摘されており(甲一の二二二頁)、刺入部位と有効分節との間にもそれに対応したずれが生じることになる(甲七の二〇五頁)。したがって、本件ブロックのように第九・一〇胸椎間にブロック針を穿刺して0.3ミリリットルのフエノールグリセリンを注入した場合でも、フェノールグリセリンが上部の腰髄神経にまで及ぶ可能性があり、本件ブロックが腰椎レベルでブロックを行う場合と比べて格段に合併症の危険が少ないとは断定できない。

また、前記三4(一)で挙げられた合併症のうち、脊髄損傷や脊髄動脈損傷による合併症の危険性については、胸椎レベルと腰椎レベルとで特段の違いがあるという趣旨の指摘は本件で証拠とされた文献上には見当たらないから、むしろ、右危険性については特段の違いはないと考えられる。

5 以上によれば、本件ブロックは原告信男に対して適応がなく、勝山医師には本件ブロックの適応の有無についての慎重な検討を加えないまま漫然と本件ブロックを実施した過失があるというべきであり、被告は、勝山医師の使用者として、勝山医師の右過失行為により生じた損害を賠償すべき責任がある。

五  原告らの損害及びその額

1  治療費

(一) 証拠(甲二九から四八(枝番号のあるものを含む)、ただし甲四〇は欠番)によれば、原告信男は、本件ブロックを実施され被告病院を退院した後に、別紙1及び同2のとおり、被告病院とは別の医療機関に複数回入通院を繰り返しており、その治療費として合計三八二万二七〇八円を支出したことが認められる。

(二) 原告らは右(一)の医療機関に対する治療費として合計五二九万二〇四四円を要したと主張するが、以下に述べる理由でこのうち一部は除外し、治療費の合計金額は右(一)のとおりと考えるべきである。

(1) 平成四年六月二三日から同年七月三日まで平塚胃腸病院に入院したと主張する点については、証拠上同年六月三〇日までの入院治療費を支出した事実しか認められず(甲三〇の三〇)、同年七月一日から同月三日までの三日間について入院しその治療費を支出した事実を認めるに足りる証拠はない。

(2) 原告信男は、順天堂医院への平成七年三月二日から同月一八日までの心臓ペースメーカー埋め込み手術のための入院時の個室差額分(六四万六〇〇〇円)を請求しているが、右手術は、本件ブロックによる原告信男の前記障害の治療のためのものではなく、別の病気の治療のためであるから、本件ブロックとは直接の関連性がない。また、他の病気の治療に際し、左下肢麻痺のために当然に個室で治療を受ける必要があるというまでの事実は認められない。したがって、右個室における入院及びそれに伴う差額の出費は、本件ブロックとの間に相当因果関係を認めることができない。

(3) 原告が治療費として主張するうち、付添人の寝具・ベッド代は、治療費自体ではない。また、原告信男が入院中常時泊まり込みの付き添いを必要としていたと認めるに足りる証拠はないから、これをそのまま本件ブロックと相当因果関係のある損害と認めるのは適当ではない。

(4) なお、原告提出の前記各証拠のうち、入院料の領収書中の金額に外来未収金が併せて計上されている場合がある。これについては通院治療費分として認められるものであるが、証拠と判断の整理の都合上、便宜別紙1の入院治療費分として計算してある。もとより、この分は別紙2の通院治療費分には計上されていない。

(三) ところで、証拠(原告靖子①調書、第二四回口頭弁論調書と一体となる原告靖子本人調書(以下原告靖子②調書」という。))によれば、原告信男は本件ブロックを受けた後も従前の右上腹部痛がおさまらなかったこと、前記入通院については左下肢の障害の治療を主目的に行ったものもあれば、その逆に右上腹部痛の治療を主目的に行ったものもあること、当初は右上腹部痛の治療に重点を置いていたが、近時は左下肢の障害の治療に主眼を置く傾向にあることがそれぞれ認められる。

そこで、これらの事情のほか、本件各証拠に現れた一切の事情を総合考慮して、前記(一)の治療費のうち五割に相当する一九一万一三五四円を本件ブロックと相当因果関係のある損害と認める。

2  付添費

(一) 入院付添費

証拠(原告靖子①調書、原告靖子②調書、弁論の全趣旨)によれば、原告信男の別紙1のとおりの入院期間(四六五日間)中に、原告靖子がある程度通院又は泊まり込みで付添看護をしたことがうかがわれる。

しかし、専門の看護婦以外に原告靖子が付き添うことが不可欠であったとの事実を認めるに足りる証拠はない。

したがって、入院中の原告靖子の付添については、付添人の寝具、ベッド代の支出も含めて、むしろ慰謝料算定の一事情として考慮するに留めるのが相当であり、独立の損害項目としては認めないこととする。

(二) 自宅付添費(将来分を含む)

前記のような原告信男の障害・病状に照らすと、同原告には自宅でも付添が必要であり、その費用は、一日のうちのかなりの時間付添を要すること等の事情を踏まえ、一日当たり三〇〇〇円が相当と認められる。そして、その日数は、原告らが本件訴状送達の日の翌日である平成五年五月二一日からの遅延損害金の支払を求めていること等に照らし、同日を便宜上の基準日として計算する。その結果、標記の金額は、次のとおりと認める。

(1) 被告病院を退院した平成二年三月一日から同五年五月二〇日までは一一七七日間あるが、前記入院日数四六五日を差し引くと七一二日となるので、合計は二一三万六〇〇〇円となる。

(2) 平成五年五月二一日時点で原告信男は六四歳であり、六四歳男子の平均余命は17.14年(平成五年簡易生命表)であるから、期間一七年のライプニッツ係数(11.2740)により中間利息を控除して計算すると、右時点以降の将来分の自宅付添費は、合計一二三四万五〇三〇円となる。

(3) 自宅療養の対象となる疾病は、右上腹部痛と左下肢障害であるが、自宅で付添を要する原因となるのは主として左下肢障害であるので、自宅付添費については、その全部(右(1)及び(2)の合計一四四八万一〇三〇円)を本件ブロックと相当因果関係のある損害と認める。

(三) 通院付添費

前記のような原告信男の障害・病状に照らすと、原告信男は通院の際に付添を要し、その費用は一日当たり三〇〇〇円が相当と認められる。

前掲の証拠によれば、原告信男は別紙2のとおり通院しているが、このうち①入院と同一日付けで入院先病院に通院しているもの(外来で受診してそのまま入院したと思われる。)、②同一日付で同一の通院先病院に複数受診しているもの(一回の通院で通院先病院の複数の診療科に受診したと思われる。)、③入院中に入院先病院と同一の病院に通院しているもの(入院中に入院先病院の他の診療科に受診したと思われる。)による重複を除き、さらに④原告靖子が原告信男の代わりに通院先病院を訪れて薬の処方を受け、原告信男は通院していないと思われるものを除くと、実質的には「通院日数」合計欄のとおり一二五日間通院したと認められる。

そして、通院付添費は、通院の必要により発生するものであるから、右上腹部痛に対する治療の必要性と左下肢障害に対する治療の必要性にしたがってその費用を区分すべきである。そこで、前記1(三)と同様の理由により双方の割合を五割ずつとし、一八万七五〇〇円を本件ブロックと相当因果関係のある損害と認める。

(四) 合計

以上(一)ないし(三)の付添費の合計は、一四六六万八五三〇円である。

3  入院雑費

前記入院日数四六五日間(別紙1)について、一日当たり一三〇〇円を相当と認め、前記1(三)と同様の理由により五割を減じた三〇万二二五〇円を本件ブロックと相当因果関係のある損害(入院雑費)と認める。

4  通院交通費

(一) 原告信男の前記障害によれば、入通院の際の移動にはタクシーの利用を必要としたと認められる。そこで、証拠(甲二九、弁論の全趣旨)及び別紙2によれば、原告信男は各入通院について、それぞれ次のとおりの交通費の支出をしたと認められる。

(1) 平塚胃腸病院 一七万六八〇〇円

(往復二六〇〇円、入院一四回、通院五四回)

(2) 都立大塚病院 一万八二〇〇円

(往復二六〇〇円、通院七回)

(3) 厚生年金病院 一万八四〇〇円

(往復四六〇〇円、通院四回)

(4) 防衛医大病院 一一万九〇〇〇円

(往復一七〇〇〇円、入院二回、通院五回)

(5) 順天堂医院 二〇万六五四〇円

(往復四〇〇〇円、入院二回、通院四六回。ただし、証拠(甲四九の一及び二)によれば、平成五年二月一一日及び同年四月二日の通院時の帰路には寝台自動車を使用し、それぞれ九二七〇円ずつ支出した。なお、甲四九の一の領収書の日付は平成五年二月一二日となっているが、順天堂医院の外来診療の領収書(甲四六の五)の日付は同月一一日なので、実際に寝台自動車を利用したのは同月一一日であったと考えられる。)

(6) 三井記念病院 三万〇〇〇〇円

(往復六〇〇〇円、通院五回)

(7) 慶応病院 一万八〇〇〇円

(往復六〇〇〇円、通院三回)

(二) 以上の合計五八万六九四〇円について、前記1(三)と同様の理由により五割を減じた二九万三四七〇円を本件不法行為と相当因果関係のある損害と認める。

5  医師への謝礼

証拠(甲二九、弁論の全趣旨)によれば、原告信男は、別紙1の病院への入院時に医師への謝礼を支払っている事実が認められる。

しかし、右支出は、原告信男が医師から治療を受けるうえで必要な経費というよりは、儀礼的な支出であるというべきであって、裁判上相手方に対して損害としてその賠償を求めることのできるものとまではいえない。

6  器具購入費

証拠(甲五〇から五三(枝番号のあるものを含む))によれば、原告信男は、洗髪器、歩行補助車、車椅子、ベッド、マットレス、オーバーテーブル及びベッドサイドレールを購入し、その合計金額三二万七七九六円を支出したと認められる。これらの器具は、いずれも原告信男の左下肢の障害が発生したことにより新たにその購入の必要が生じたものである(原告信男本人調書一一項、甲二三)から、その全額を本件不法行為と相当因果関係のある損害と認める。

7  慰謝料

(一) 原告信男の後遺症慰謝料

前記認定の各事実及び本件各証拠に現れた一切の事情を総合考慮すると、本件不法行為によって原告信男の受けた精神的苦痛を慰謝するためには、慰謝料二〇〇〇万円をもってするのが相当である。

(二) 近親者の慰謝料

原告信男の障害が重篤であり、生涯にわたって原告靖子及び原告雅弘による介護を必要としていること、並びに自宅付添費として別途一日当たり三〇〇〇円を生涯にわたり原告信男の損害として認めるので、その分は実質的には介護にあたる近親者に対して支払われるという関係にあること等の事情を考慮すると、本件不法行為によって原告靖子及び原告雅弘の受けた精神的苦痛を慰謝するためには、原告靖子に対する慰謝料二〇〇万円、原告雅弘に対する慰謝料三〇万円をもってするのが相当である。

8  弁護士費用

前記の諸事情によれば、本件不法行為と相当因果関係のある損害として、原告信男については三七五万円、原告靖子については二〇万円、原告雅弘については三万円の弁護士費用を認めることができる。

9  なお、被告は、原告信男が心臓のペースメーカーを使用して障害者一級の認定を受けていることが慰謝料及び付添費用の算定にあたって考慮されるべきであると主張するが、原告信男がペースメーカーを使用し始めたのは平成七年からのことであり(原告靖子②調書二三・二四頁)、本件不法行為による損害の発生後に生じた本件と無関係の事情であるから、これを原告らの損害の算定にあたって考慮することは適当ではない。

六  結論

以上によれば、原告らの被告に対する請求は、原告信男が四一二五万三四〇〇円、原告靖子が二二〇万円、原告雅弘が三三万円の支払を求め、かつ各原告がそれぞれについての右認容額に対する平成五年五月二一日から各支払済みまで年五分の割合による金員の支払を求める限度で理由があるのでこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官岡光民雄 裁判官庄司芳男 裁判官杉浦正典)

別紙1および2<省略>

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